チフヴィン (Tikhvin)
州都サンクトペテルブルクからは東へ200キロメートル. チフヴィンスキー地区の行政中心地であり、同地区および州東部の産業・文化・交通網の中心でもある. ヴォログダとノヴァヤ・ラドガを結びサンクトペテルブルク方面へ接続する国道A114号線が走っている. 人口は63,338人(2002年国勢調査. 1989年ソ連国勢調査では71,352人).
チフヴィンという地名は、ヴェプス語の「tikh」(道路)と「vin」(市場)に由来する. 古くからの交易路である水路や陸路がこの地を通っていた.
チフヴィンが記録に初出するのは1383年で、木造の生神女就寝大聖堂がこの地に完成したことが伝えられている. 1495年から1496年にかけてノヴゴロドの登記官Yu・K・サヴロフが書いた記録にも、チフヴィンと聖堂のことが登場している.
バルト海からラドガ湖、チフヴィンカ川を経て丘を越えヴォルガ川上流に至るという交易路(ヴァリャーグからギリシアへの道)に沿っていたことから、チフヴィンは急速に発達した. 16世紀初頭、チフヴィンはすでに知名度の高い交易中心地であった. 1507年から1515年にかけて、モスクワ大公国のヴァシーリー3世が資金を出し、炎上した生神女就寝大聖堂の跡地に石造の聖堂を新たに建てる工事が行われた. ノヴゴロドのドミートリイ・スィルコーフが手がけたこの聖堂は現在も残っている.
1560年、ツァーリ・イヴァン4世は生神女就寝修道院をチフヴィンカ川の左岸に建てるよう命じた. この建築工事はドミートリイの息子フョードル・スィルコーフが手がけ、イヴァン4世は建築のために20か村の農民を動員する許可を与えた. 1560年の春から夏、大きな生神女就寝修道院と小さなヴヴェデンスキー聖堂が同時に建てられ、その周囲に交易所、工房、住居などからなる集落も築かれた. 堅固な城壁や塔で囲まれた修道院は、同時にモスクワ・ツァーリ国家の北辺の地を守る重要な要塞でもあった.
17世紀初頭、ロシアは大動乱と呼ばれる内乱の時期に突入した. これはスウェーデンおよびポーランド・リトアニア共和国の介入を招き、スウェーデンとのイングリア戦争でノヴゴロド周辺の地方は破壊された. 1613年、チフヴィンはスウェーデン軍により占領され、略奪・放火された. 住民は修道院の城壁の中に逃れ、包囲戦や略奪を耐えた. その後スウェーデン軍はこの地から撤退し、ノヴゴロド周辺の地方はようやく外国軍の侵略から解放される.
チフヴィンの経済的繁栄の時代は17世紀から18世紀にかけて訪れた. 手工業が活発になり、チフヴィンの鍛冶屋の製品はロシアだけでなく周辺諸国でも珍重された. チフヴィンはフィンランドやイングリアなどバルト海沿岸を支配したスウェーデンとの国境交易の重要な拠点としても栄え、ロシアの国外への窓の一つとなった. この時期、チフヴィンに立った市はロシアでも最大級のものだった. こうしてチフヴィンの市街地の規模も大きくなった.
この時代、石造建築は修道院の領地でのみ許可されていた. 16世紀末には石造の聖堂や食堂、鐘楼などが修道院に追加されている. 17世紀半ば以降には修道院内の木造建築全てが石造で建て直された. これらの工事により、修道院は芸術性の高い、歴史的にも建築史的にも重要な建築群となっている. これらのほとんどは、18世紀や19世紀の増築で原型が変わった部分もあったが、今日にも残っている.
1723年、長い戦いの後にチフヴィンの住民は修道院による支配から解放され、独自の自治を行うようになった. 1764年に修道院資産が国有化されるまでは集落は完全に修道院から分離された状態ではなかった. 1773年、チフヴィンは市の地位を得る.